参考文献
ふるさとの歌 与那覇政牛先生の著作 野村流古典音楽保存会
南東文学 外間守善先生の著作 角川書店
近世沖縄の肖像 池宮正治先生の著作 ひるぎ社
琉歌大観 島袋盛敏先生の著作 沖縄タイムス
集成琉歌新訳 阿波根朝松先生の著作 沖縄タイムス

プロフィール
春緒うるま
春緒うるま
poetry talker上間春緒です。netで『うえ間はる』『春緒うるま』『うるま』と名乗ってました。
「琉歌が変わるねっと」では親しみやすい沖縄のウタを紹介、作りながら楽しみます。何かの役に立ったら嬉しいですね。
 ライフワークは詩と琉歌を創作、ポエトリーリーディング・スポークンワードで演出。
良い雰囲気で充実した『天然流』の生き方を提唱します。


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2021年04月17日

明治・大正は琉歌がかわる時代。昭和から現代へ

 琉歌は明治時代になり新聞への投稿という新しい表現方法が生まれる。
琉歌のサークルと呼べる「琉歌会」がいくつか見受けられた。現在も琉歌会の名前で新聞投稿など活動なさる方々がおられます。参考文献には「琉歌会」の作品が数多く掲載されてます。この中から時代背景などを考察します。
 世界は争い、武力の強さを誇る時代。平安な琉球王国から混乱する時期に入ります。琉歌はどのようになったか。それは、デジタル化へと変革を迎える令和の今! 参考にすべき重要な時期です。

参考文献

「近代琉歌の基礎的研究 」著者(敬称略)仲程昌徳・前城淳子 勉誠出版 沖縄県立図書館~1万5千首あまりが紹介されている。
『琉球新報』『沖縄毎日新聞』に掲載された大正期の琉歌 。著者(敬称略)・前城淳子 琉球大学学術リポジトリ~琉歌は約4,000首。

 琉歌の基本を知りたいときは「琉歌とは 基本が分かる島唄の世界」の記事が参考になります。


明治時代の琉歌


 1868年に明治時代になるが、沖縄の王朝時代の名残はしばらく続く。
1893年に沖縄でも新聞が発行された記録があり、共通語を読める庶民も増えていたと考えられる。琉歌を新聞読者欄へ投稿する形もできたわけです。
 時代の大きな流れとして徴兵令もこのとき施行されていた。1894年には日清戦争が始まる。日本という国としての意識が沖縄県民にも芽生えます。
 1898年ごろに「方言札」という言葉が使われていたと情報がありました。共通語を使おうという流れが教育現場で行われていたらしい。
 方言から共通語への社会的な流れがあり、琉球伝統的なモノや表現の危機を感じる方々。時代に応じて新しい表現を模索する方々。両方の意味で意識を持つ人は琉歌の表現方法へ関心を示した。

 明治時代は共通語による言葉の変化もありました。方言を使うにしても影響を受けます。ただ、文章にした場合に大きな違いはみられない。参考文献の『琉球新報』『沖縄毎日新聞』に掲載された「大正期の琉歌」において作品から受ける印象です。文字での表現が現代とは違うからでしょう。分かることは「琉歌は朗読するもの」という基本。

 1904年は日露戦争があった。琉歌を詠むような余裕はない方も増えたのではないかと思われる。
 1909年に第一回琉歌大会が新聞に掲載される。新聞への投稿など「琉歌会」の活動が各地であったことが伺える。
琉歌の表現方法を変えようという新派も登場する。沖縄において「組踊」も盛んに上映される。
『伊波月城』氏は
「沖縄の文芸復興」
と記している。
 しかし、これを境に新聞投稿の減少。世界の流れも注目すべき原因だと考える。
 次に大正時代を考えてみよう。

大正時代の琉歌


 大正元年(1912年) 西暦にすると1909年の第一回琉歌大会から年月は長くはないと分かります。
1912~1919年が参考文献にでてくる琉歌です。
 新派は短歌、詩、小説へと表現方法を変える。「共通語を使うなら」と短歌、川柳(俳句)などもあります。結社の減少は高齢化らしい。それでも琉歌会は令和時代も活動してます
 それに1914年から第一次世界大戦がありました。これを忘れては世の中の変化を忘れてしまう。
世界は安定しない戦争の時代のど真ん中と言う歴史的な事実があります。

 大正時代の琉歌は琉球王朝の時と同じように日本文化や言葉を取り入れながら、和歌に通じる文字表現をした。東京を中心にした近代的なひらがな表記よりも平安時代に近い。この伝統は大切です。ただ、「思いを詠む」という琉歌の本質からすると、言葉が変わると、それに応じた表現方法もあるはず。それは、音楽と再び結びつく「昭和の沖縄民謡」に反映されることになる。

 参考にこの時代の有名人物を紹介します。
『山之口 貘(やまのくち ばく)』
 1917年(大正6年)4月に沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学する。学校では標準語を用いる様に指導されたが反発してわざと琉球語を用いた。1918年(大正7年)から詩を書き始める。1921年(大正10年)に一中を退学する。1922年(大正11年)の秋に上京して日本美術学校に入学。
 琉歌と関わったのか情報は得てません。私が知らないだけかもしれませんね。しかし、方言を使っていたことは確かですし詩に興味がある。当然「琉歌の存在はご存じです」

 有名な人物を挙げるまでもなく、大正時代は日本にとって後年の「芸能に関わる出来事」の始まりともいえます。
その中で
琉歌は伝統的な方言で表現する形が受け継がれてゆく。

昭和時代からの琉歌


 元年(1926年) 琉歌は音楽の歌詞として認識する方は多い。1928年(昭和3年)に勤労貯蓄奨励キャンペーンの一環として詞を募集で当選したのが「汗水節」沖縄民謡として人気もあります。
 汗水節は分かりやすい方言を使ってます。歌碑の表記も発音に近くなってます。沖縄民謡の歌詞として読みやすい表記で王朝時代の琉歌も歌われることになります。これは、琉球民謡の歌詞として認識された証拠です。

 1931年・満州事変。1939年・第二次世界大戦などと動乱が続きますが
混乱の時代を過ぎてから民謡として歌われる「二見情話」は有名です。
 二見情話も沖縄方言ですが、言葉が王朝時代から違ってきてます。当然ですね。琉球語といっても種類は多いし、なるべくみんなが分かる表現へとなっていった気がします。

 1955年ごろは沖縄も復興してきてました。昭和30年代からは私も経験からわかる事も増える。まずは、表記が当て字ではなくて意味のある漢字を使い、意味を予想できるようになった。

 ただ、琉歌の味というか、雰囲気は昔のままが良い。新聞投稿や公募に形式は残されています。
しかし、若者には読めない。沖縄方言を覚えて、文字を解読してと手間がかかってしまう。
明治時代の新派が何を目指したか知らないが、たぶん、普通に使う言葉ではない共通語が「語るウタ」として馴染まなかったと思う。気になる琉歌の新しい形(新派)が何故姿を消したか。もっとも大正時代の新聞への投稿作品は知らないうちに方言も変わってきていたと気づく。やはり日常は方言を使っていた現実があり、当時は共通語では借り物の表現になたtのではないかと思う。

 21世紀の今では日常が共通語。琉歌の定義でもある「思いを読む」ならいつも使う言葉が良い。それは大正時代と変わらない。確かに琉歌の8音と6音に当てる言葉に戸惑うことがあった。
 だから今の言葉は方言も混ぜたような話し方が普通です。それで良いと思う。

 今は共通語が家庭でも使われてます。自分の思いを思考するときも共通語になる。それなら語るウタは共通語になる。
現代琉歌」としていつも使う言葉で琉歌を定型詩と捉えるのも、本格的な琉歌に親しむきっかけになる。

琉歌の応募

 琉歌の新聞投稿も健在です。琉歌会も参加してます。

主な公募の情報。

恩納村観光協会の琉歌大賞は30回を越えて公募してます。令和3年の現在は一番人気のある投稿場所っでしょう。
南城市文化課 琉歌大募集南城市に関係した作品を公募。尚巴志。せーふぁうたき、古代ロマン溢れる場所。この琉歌応募は魅力的です。

 現代琉歌として話し言葉で方言や英語も使う作り方から始めましょう。しだいに方言を習得して本格的な伝統的琉歌も詠めるようになります。

現代琉歌作品の例



イメージ写真の歌碑
吉屋チルー の琉歌を参考にして現代語にした作品例。
「今日も 待ちわびる 待ちぼうけで 暮れる 暮れた 山並みの 月が にじむ」

若夏(わかなつ)は旧暦4月~5月。梅雨時期です。
「若夏の 空で 見えた 青空は ダイビング してた 君の 笑顔」
「若夏の 風に 薫(かお)る 思い出は 君の島で かおる 甘い パイン」
「若夏の 海へ 一枝の 梯梧(でいご) ダイビング してる 彼は 笑顔」 
「若夏ぬ 空に 鳥が さえずれば サンシンの 音色 雲と 遊ぶ」

「ニライカナイ」は沖縄でいう理想郷。
「若夏ぬ 海に 光る 白い波 わが思い 馳せる ニライ カナイ」
「若夏ぬ 森に 鳥が 飛び交えば サンシンを 抱え 癒やし の旅」

「暑苦しぃ からね 沖縄へ 行こうよ マーメイドに 成って 海中 散歩」

「おねしょして 泣けば おむつ 取り替える 君の 笑顔には 勝てや しない」 

「赤ちゃんは 夜泣き 眠れない 夜は 子守歌 の声 思い 出した」

「二人 愛の旅 つかむ 幸せは ツラサ 乗り越えて 永遠(とわ)に 続く」

「祝う 人たちも 縁を 大切に ツラサ 分け合える 愛の 世界」

「雨が 降り出して ちょうちょが こんにちは 飾らない 部屋に 花の 香り」

「さみだれが 来れば 頬に 雨しぶき 雨けむり 揺れて 君の 笑顔」

「まやかしの 恋か それは 蜃気楼さ さみだれが 来れば 君を おもう」

「さみだれが 去れば 海に 友達と 夏風も かおる 君の 島へ」

「花びらが 散って 流される 川も 戻る 故郷に 人の 情け」

「うりずん」は旧暦2月~3月。春です。
「いろいろな 花の 風に乗る 匂い うりずんの 僕は 恋の 季節」

「蟹(カニ)は 泣いている 埋め立てた 浜で 蟹は  諦(あきら)めん 海の  夜明け」

「ナビービーチ」恩納村にあるビーチ。「しゅらさ」は良い匂い。
「波の 音が誘う  ナビービーチの デートは  濡れて 触れ合った」 髪の しゅらさ」

「君と 語りあい 思い 伝えても 君の 心など 見えは しない」 

「君のため 尽くし 君を 護りたい 押し売りの 愛は 首を 絞める」

「君の 思うまま 落ちて行く 果ては 戻る 道もない 鬼の 世界」

「語り合う 夜も 夜が 明けたなら 眠け 覚ましてと 急かす 小鳥」

「打ち晴りてぃ」は「すっかり晴れる」と言う意味。心や天気でも使われる。

「喧嘩した 君に メールを送ったよ うち晴りてぃ あとの 声の しゅらさ」


「カニの みつめてる 荒波の 海も 空が うち晴りてぃ カニも 笑顔」

「うりずんの 花は 濡れて 泣いていた 雨も うち晴りてぃ 風に香る」

「わがままな 俺も 浮世 知りました うち晴りてぃ 今は 人を お世話」 

「ちゅらさ」は「美しい」とか「清らか」と言う意味。
「五月雨が 去れば 若夏も 終わり うち晴りてぃ 見える 空の 清らさ」

「沖縄の 観光 青い海 眺め オスプレイ 見えた 青い 空に」

「オスプレイ 飛べば 平和 招くのか 観光客 来ても 楽に ならず」

「濡れそぼつ 梯梧 匂い 消えかけて 若夏の 思い 浮かぶ 雲間(くもま) 」

「こんな  山道も 君となら  行ける 永久(とわ)に  もっと在れ 宇宙(そら)の  果てへ」

「キスだけで 帰る? なにか 求めるの 染め初(そ)める 花は あなた しだい」




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Posted by 春緒うるま at 18:04 │琉歌作りの基本